「法泉寺の壁」

『屏風』の中で、「井戸」の前を通り、さらに、西に向かう。ただし、「丸亀町」から数えて、2番目と3番目の南北の通りの間には、現在は、「中央通り」が通っているので、この『屏風』で西に向かう先ほどの道は、途中で分断されている。現地は、車の通行量が多いので、通りを横切ることはおすすめしない。しかし、中央通りの向こうには、「四番丁小学校」に向かう道が、続いているのが確認できるので、いったん地下道を通って、西側に進んでいく。『屏風』で、丸亀町から2つ目の交差点を越え、次の角にいたる。『屏風』では、南側には、大きな屋敷がある。現在は、大体、高松市役所のある場所である。北の方は、道が外堀の角のあたりまでつながっており、その通りが、兵庫町の通りと交差するあたりは、なんとなく「広場」のようになっている。現在、「広場」と呼ばれるのは、そのあたりが少し「広く」なっていたことに由来するらしい。今では、この広場にまで至る南北の道は、ほとんど宅地に取込まれてしまったが、南の部分だけは、「四番丁小学校」と「東福寺」の間の道として残っている。ちなみに、この南北の道の兵庫町からの入り口部分には、現在は、果物屋がある。一方、南の方では、現在は、「四番丁小学校」と「東福寺」の間の道は、『屏風』のお屋敷を突き抜けて、さらに南に伸びている

ここで、現在地図で、さきほどの「四番丁小学校」と「東福寺」の間の道にたち、北の方向を眺めよう。『屏風』の時代には、広場のほうまで見渡せたであろうし、戦前までは、広場からの電車が、その道を通っていた。しかし、現在では、目の前には「法泉寺」があって、広場方向の眺めはさえぎられている。「法泉寺」は、『屏風』では、「東福寺」の北側であるが、戦後、駅前から県庁へ向かう県道の用地となり、釈迦像も、元の位置から移されたのである。よって、現在の「法泉寺」は、『屏風』時代の南北の道を取り込んでいるのである。現地で見れば、「法泉寺」が『屏風』の時代の道路をとりこんだことは、よくわかる。「四番丁小学校」と「東福寺」の間の道から見た「法泉寺」の南の壁は、様子が異なるからである。その異なる部分が、『屏風』の道に相当するのであろう。

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