「東浜町」

 『屏風』の中で、東浜港の左つまり東側の半島のように突き出ている部分は、現在では「城東町」と呼ばれている。高松港の歴史を語る以上、東浜港に面したこの町を考えざるをえない。

 井口町の通りから、北の方へ伸びた3本の道については、既に述べた。それでは、それらの南北を結ぶ道に対して、『屏風』にみえる東西の道は、現在ではどの道に相当するのであろうか。港を考える予備として、この問題から整理していこう。

 再び、井口町と通町の交差点から、進んでいこう。『屏風』で、北にむかい、外堀と東浜港の境となる橋にいたる。道の区画から考えて、この橋のあるところは、現在の「通町交番」のあたりである 。『屏風』で、通町をさらに北に進むと、東側に角があり、さらに進むと「海」に至る。

問題は、『屏風』の中で、通町をまっすぐ北に向かって海に出たところ、つまり人が物を担いでいたり、船が停泊したりしているその岸壁が、現在のどの位置であるかということである。現在、通町の交番の東側を北に行くと、道は、右手に「丸一倉庫」があるところで突き当たり、右折つまり東に向かうしかできない「ヘンな道」がある 。この道の形状は、以前の東浜港の一番奥が鍵型になって狭くなっていた「名残」である。明治の歴史で紹介した『高松市街明細全図』の中でも、東浜港は、一番奥の南の部分が狭くなっており、「糖業会社」の前で(現在の丸一倉庫前で)、港の形は屈曲している。この道は、このあたりが埋め立てられる以前は、東浜港の主要港湾道路として機能していたのだが、現在では、まったくの裏道となってしまって、車が通ることも稀である因みに、我が「高松港管理事務所」の仕事との関係で余談をご披露するならば、この道は、現在、ほとんど機能していないのに、いまだに「臨港道路」として我々の管轄対象となっているのだが、赴任したばかりの時には、浜街道によって港から遮断されてしまい人通りも少ないこの道が、なぜ港湾事務所に関係があるのか不思議に思うものである。しかし、それもまた、古の東浜港の名残として、歴史的連続性のもとで理解すれば、謎は氷解するのである。

 それはともかく、『屏風』の先ほどの通町の北端は、現在のどこであるかという問題に戻ろう。これについては、『屏風』の描写の正確性とも絡んで、議論が分かれるようである。一つの考え方として、現在の「丸一倉庫」のあるあたりが、赤い着物をきた人が外に立ち、中で二人の人が向かい合っている白壁の家あたりとすることである。しかしながら、この仮説は、先に述べた、対岸の高松城の中堀との位置が、うまく説明できない。既に述べたように、中堀の真南の東西の道は、現在の浜街道であるから、『屏風』の中で、その東西の道の延長線上に位置するこの白壁の家の位置が、現在の「丸一倉庫」の位置とすることは、地形的にあわない。なぜならば、「丸一倉庫」は、現在、浜街道よりもかなり南の、むしろ浜街道より一つ南の通りの延長線上にあるからである

 それゆえ、現在の「丸一倉庫」の北西の角の道は、『屏風』の中では、通町の橋を過ぎて、一つ目の角あたりとするほうが、妥当である。そうすると、それより先、つまり北の部分は、現在のどこなのかという問題が生じるが、先ほどの白壁の家とか木材を置いている野積場を含む一角は、後に港内拡張のために削られたと推定すべきであろうか。明治28年の『高松市街明細全図』では、現在の「丸一倉庫」の位置は、「糖業会社」のあった場所であるが、その北側には、現在同様に道があるものの、そのさらに北側にある土地は非常に狭い。『屏風』の中の白壁の家や野積場のある区画は、後に相当削られたという推定になるのは、このためである。因みに、「丸一倉庫」の北側の道から、東を見ると今でも、道は直線になっておらず、若干、南の方へ屈曲している 。『屏風』の橋から一つ目の角を、現在の「丸一倉庫」の北西の角と考えた理由のひとつは、『屏風』でその角から東に進む場合に、右折して左折するように道が屈曲している点が、現在の状況と一致しているからである

それゆえに、『屏風』の中で、先ほどの野積場の東側の区画は、現在の「東宝イン高松ビジネスホテル」のあるあたりであると考えたい。そうなると、『屏風』の東浜町の先に突き出ている防波堤兼桟橋は、現在では、「東宝イン高松」の西側の道の延長線上に位置することになる。結局、現在の「県道高松港線」も、大体その上を走っていることになる。つまり、『屏風』の時代以降の東浜町の埋め立ては、『屏風』の防波堤兼桟橋を起点にして、より左の部分つまりその東側を埋め立てることにより、新地の開発がおこなわれてきたのである

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