
沖縄文化に一生をかける
かつて沖縄が、まだ琉球王国という名の独立国家であった面影が残る時代。香川で生まれ育った鎌倉芳太郎は東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業して、かねてより関心のあった沖縄を目指した。今から85年ほど前、大正年間のことである。
沖縄では首里の士族の家に下宿し、教鞭(きょうべん)を執った。2年の滞在期間中に積み重ねた琉球芸術の調査研究資料は膨大なものとなり、それを手に一時帰京した折、母校の校長であった正木直彦に高く評価された。これが、結果的に芳太郎のライフワークのスタートとなった。
以後、芳太郎はアジアや欧米の踏査探訪などに実績のあった東京帝国大学(現東京大学)建築科教授伊東忠太の協力を得て、12年間に4回の沖縄滞在を含む「琉球芸術調査事業」を行う。特筆すべきは、その初回の旅立ち直前のころにあった出来事。東京にいた芳太郎の耳に、老朽化した首里城正殿の解体ニュースが飛び込む。身近に見知っていた文化財保護に情熱を燃やした彼は直ちに伊東に進言、伊東から内務省を経て解体中止の通達が下った。この通達が現地に届いたのは解体のために瓦が降ろされた時で、まさに間一髪の救出劇だった。その後すぐに首里城正殿は国宝に指定される。その際作成した詳細な資料のおかげで、同城は沖縄戦で全焼したにもかかわらず、見事に復元されている。
よく「沖縄芸術の研究に一生をかけ、自ら制作者となった昭和の巨人」と紹介される芳太郎だが、「その中心はやはり紅型(びんがた)であろう」と多くの人は口をそろえる。紅型とは琉球王家御用達だった染め物で、その名称そのものも彼が用いたのが最初とされる。いわく、「紅」は色の総称で、「型」は模様を示すという解釈だ。
すでにほとんどの紺屋(染め屋)が廃業に追い込まれ紅型もすっかり影を潜めていた時代に、芳太郎は丹念な聞き取りを行うと同時に型紙・染め見本などの資料収集に励んだ。この取り組みもまた、戦火でほとんどのものが焼失した沖縄にとっては貴重な資料が残せたという思いがけぬ功績につながったのである。
そうして芳太郎は戦後、これらの資料を基に紅型研究に没頭。それだけには飽き足らず、とうとう60歳を目前にしたころから自ら片絵染の制作を手がけるようになる。もともと日本画の素養を身につけていた彼だから、初出品の第5回日本伝統工芸展(昭和33年)以降、第22回展まで入選を重ね、その途中の昭和48年には重要無形文化財「型絵染」保持者に認定され、ついに人間国宝となる。
こうした芳太郎による一連の琉球文化の研究と実践は、ひるがえって沖縄の人々にも多くの自信を与え、誇りをもたらすため大いに役立った。近年、ある芳太郎研究者が沖縄を訪れた際、現地案内人に自分が香川から来たことを告げた途端、突然姿勢を正されたというエピソードがある。そして、案内人はこう言ったというのだ。「芳太郎先生は、沖縄文化の大恩人です。先生がいなければ今日の首里城もなければ紅型もなく、私たちにとっては神様のような存在です」と。
天国で暮らす芳太郎は果たして、そんな言葉をどう聞くだろうか。くすぐったがって笑うのか、感涙にむせび泣くのか。いずれにしても、彼が体格ばかりでなく文字どおり「昭和の巨人」だったことは確かなのである。

かまくら よしたろう
鎌倉 芳太郎
1898(明治31年)〜1983(昭和58年)
木田郡氷上村(現・三木町)に生まれる。東京美術学校(現・東京芸術大学)図画師範科を卒業して沖縄県立女子師範学校兼第一高等女学校教諭に赴任以来、琉球芸術の研究に専念。その中でも美術工芸、とりわけ染色「紅型(びんがた)」に注いだ情熱は並々ならぬものがあり、自身も染色作家として一意専心、晩年には重要無形文化財「型絵染」保持者に認定された。石垣市名誉市民。三木町名誉町民。