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あっぱれ香川【人物伝】野網和三郎

保井コノ
山陽新聞社提供

徹することで拓く

 一言でいうとパイオニアやな。安戸池(あどいけ)の底にはヒラメやカレイ、中層部にはチヌやボラ、その上でタイやハマチがエサを食べて、一つの無駄もないような立体養魚をしたいと言うたり、鳴門海峡と来島海峡に水門を設け瀬戸内海を巨大な養殖場にしたいと、そんな大けな構想を持っとる人やった」と語る橋本正さん(東かがわ市)は、野網和三郎からハマチ養殖の手ほどきを受けた一人である。

 野網和三郎が、海水魚の養殖を始めたのは、1927年(昭和2年)。当時は、魚の養殖といえば、ウナギやコイといった淡水魚に限られていて、海の魚を飼うなどというのは人知を超えることと笑われた時代であった。その途方もない夢を現実の目標としたのは、志摩水産学校時代、御木本幸吉の真珠養殖の成功談に感化されたからだった。また、「稚魚を愛せよ大漁が続く浜に黄金の花が咲く」という校長の言葉を心に刻みつけていた。

 網元の3男として生まれた和三郎は、漁師の暮らしの厳しさや行く先の不安を身にしみて感じていた。明日に不安のない海の暮らしを目指したいと、水産学校に進学し、その答えを海水魚の養殖に見つけた。この構想の実現に、和三郎の父の存在は大きい。立派な家の4、5軒も建てられるほどの大金を払って安戸池を借り受け、和三郎のために夢の舞台を用意してくれたのだ。

 網元のお父さんがおらなんだら、何もできなんだやろうな。お父さんも立派な人で、野網さん親子はとにかく魚が好きやった。魚を売ることを考えとるというより、安戸池に魚がようけおると機嫌が良かった。和三郎さんは魚のことになると、偏屈というか厳しい人で、ハマチの身になって、魚の気持ちになって仕事をしろと、よう言われました。ハマチのエサを自分で食べて、味見をしとりましたわ」と、橋本さんは当時を振り返る。

 安戸池で、和三郎は次々と魚を飼ってみた。サバ、アジ、タイ、フグ、カキや真珠の養殖も手がけた。試行錯誤の繰り返しで、失敗も数多くあった。そうした中で、ハマチの試育に成功した喜びはひとしおで、船べりに群れるハマチにエサをやる父の姿を「魚への愛情をあらわにしている」と伝記に記し、その感慨をしみじみと描いている。心底、魚を愛した親子の夢が実現した幸福なひとときであった。

 和三郎は、養殖の犠牲になった魚の霊をまつり、朝な夕なに手を合わせていたという。和三郎の仕事には、一貫して魚への愛情があり、それは自然への畏敬(いけい)の念でもあった。「吾々(われわれ)人間の力はただその絶大なる自然の力の上に、知恵と努力を傾け尽くし、御(お)手伝いさせてもらって、その生産が約束されてゆくということである」と自著で述べている。その自然から学んだ研究成果は、個人の利得であってはならず、あまねく生かされてこそ意義があるとも語っている。その言葉通り、視察者に養殖の方法を詳しく説明し、精力的に講演を行い、研究者や大学関係者とも大いに意見を戦わせて、全国に海水魚の養殖を広めた。

 新しい養魚の道を開くということは容易ではないが、徹するということによって、その道を拓(ひら)くことも可能である…真心から魚に仕え尽くすのだという魚になりきるところの精神によって、はじめて成功の道がひらかれる…」と自伝を結ぶ。この言葉通りに養魚に人生をささげた和三郎であった。

 今、安戸池は誰でも楽しめる釣り公園となり、そのほとりには、和三郎の愛称「ワーサン」と名付けられた販売施設やハマチ養殖などを学ぶ体験学習施設「マーレリッコ」があり、子どもたちの姿も多く見られる。野網和三郎の「徹することで拓く」パイオニア精神は、この地に脈々と伝えられているに違いない。安戸池のほとりに立てば、「自然を尊び、魚を愛せ。夢を抱け」と、和三郎が今なお語りかけてくるようだ。

のあみ わさぶろう
野網 和三郎
1908(明治41年)〜1969(昭和44年)
引田村で網元の3男として生まれる。三重県志摩、島根県の両水産学校を卒業。
卒業後、安戸池を借りてかん水(海水)による養殖実験を開始。試行錯誤の末、1928年(昭和3年)ハマチの餌付けに成功、本格的なハマチ養殖事業を開始する。そのノウハウを公開し、日本かん水養魚協会長を勤めるなど、全国のかん水養殖業の発展に尽くした。この間、引田漁業会長、同漁業協同組合長、香川県資材協会長、日本かん水養魚協会長、香川県かん水養魚協会長、香川海区漁業調整委員、瀬戸内海連合海区漁業調整委員などの要職を勤めた。県知事文化賞、高知新聞四国文化賞を受ける。

安戸池