小西和著の『瀬戸内海論』は、明治44年12月に発行された。
小西和は明治6年に讃岐国寒川郡名村(現在のさぬき市長尾名)で生まれ、札幌農学校で学んでいる。札幌農学校は「少年よ、大志をいだけ」の言葉を残したクラーク博士が教鞭(べん)をとったところで、日本で最初の高等農学校であった。そこでは、不屈の精神と何事にもチャレンジする姿勢で取り組むことが教えられ、「開拓の実践」「学問の充実」という二本立てで、質の高い教育が行われた。宗教家で評論家の内村鑑三や築港技術・橋梁技術・構造力学の世界的権威者広井勇博士、国際連盟事務局次長にもなった新渡戸稲造らが学んだところである。
小西和は北海道開拓を志し、札幌郊外の栗沢に小西農場を開拓。郷里香川の人に移住を呼びかけ、約250ヘクタール、100戸の開拓の新天地をつくり、続いて第二小西農場もひらいた。明治32年に農場を人に譲り、その後、東京朝日新聞に入社。新聞記者として日露戦争に従軍することになった。満州や樺太、朝鮮半島へ派遣され、小西の送稿は戦争記事のほか、調査記事もことごとく紙上にとり上げられるほどのものであった。
2年にわたる従軍から帰ると、1年間の慰労休暇と特別賞与を支給された。ここで、小西は、自分を育ててくれた風光明美な瀬戸内海を調べることとし、一人沿岸を巡り、つぶさに見聞するとともに、あらゆる関係資料を収集した。1年後に新聞社に復職してからは、帰宅すると、毎晩四畳半の書斎にこもって、深夜まで資料を整理し、3年後に『瀬戸内海論』を刊行することができた。小西和38歳の年である。
この本のなかで、小西は環境の保全や文化財の保存、海主陸従の思想、架橋の課題、洋上観光や国際観光の推進などを説いている。そうした内容に加え、瀬戸内海を単に地方的な内海とせず、日本の誇るべき世界の財産として活用すべきとする見識は、今も瀬戸内海を考えるうえで重要な示唆に富むものとなっている。
明治45年、衆議院議員に当選した小西は、大正8年、「国立公園法案」の提案を行うが、理解者が少なく、審議にすらならなかった。その後、議会の委員会でも無視されてしまう。それでも小西は諦めず、粘り強く主張し続け、懲りずにしぶとく、毎回提案をし続けたのである。そして、とうとう昭和6年、「国立公園法」が成立し、小西の苦労は何とか報いられた。
3年後、「国立公園法」による指定が行われ、第1回の指定に瀬戸内海が決まり、小西は念願を果たすことができた。『瀬戸内海論』での主張から20数年が経っていた。
瀬戸内海についてのまとまった研究論文は、小西和の『瀬戸内海論』が最初であるが、以来1世紀、橋ができ、高速交通体系が整うなど海路である瀬戸内海の役割も大きく変わった。
しかし、小西和が100年前に考えた事柄は今も多くは変わっていない。むしろ問題解決はこれからなのである。『瀬戸内海論』で指摘している景観の保持とその活用、つまりは環境保全と観光振興が最も大きい課題である。
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世界を見通す視点『瀬戸内海論』
1998年に口訳も出版されている。 |
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小西和の描いた瀬戸内海
(『瀬戸内海論』内) |
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こ にし かなう
小西 和
1873(明治6年)〜1947(昭和22年)
讃岐国寒川郡名村(現在の香川県さぬき市長尾名)に生まれる。ジャーナリストでのちに政治家。札幌農学校で学び、明治27年卒業。北海道で農場を開き、のち東京朝日新聞に入社。新聞記者として、日露戦争に従軍。明治45年以来、衆議院議員7回当選。満州製糖などの経営にも当たる。著書に「日本の高山植物」「瀬戸内海論」などがある。
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