空海以来、多くの哲学者や思想家を生んだ讃岐にあって、日本の戦後思想の支柱となった南原もまた、不世出の哲人の一人だった。
神童といわれた南原が、小学生のときに書いた短文『我が望』が残る。「私は今より進みて高等小学校卒業し身体を強壮にし他国に渡り学を修め教育の法を進歩せしめ以て国益を広めんことを望む」とある。いかに漢籍を学んだとはいえ、この童(わらべ)の世界観には驚くしかない。
のちに南原は自らをイデアル・レアリスト(理想主義的現実主義者)と称し、その政治哲学の論拠を『価値並行論』に置いた。
戦後初の東大総長としてぶち上げた「新日本文化の創造」論では「主体的な人間革命による新たな国民精神の創造こそが、道義国家の建設の道である」とし、真の革命は政治的価値としての正義の実現をめざす「政治革命」と、真理や人格価値の確立をめざす「人間革命」との一致によってのみ成就し得る、と説いた。平たくいえば、どこまでも人間意識を、人間性理想を追い求めた熱血の人だった。
高邁(こうまい)なるがゆえに、反時代性などと反発を買ったが、あれから半世紀を経た人間疎外の今、南原論が耳を突ん裂くようによみがえるのである。
その南原が、人間的にこよなく愛したのが笠置シヅ子だといわれている。のちに笠置も「いつも励ましのお言葉から身辺の安否までお気づかいいただいた。誰にも美しい愛の心で接する方でした」と南原をしのんで語っている。
笠置は幼いころ大阪に移った。十三歳で大阪松竹楽劇部(のちのOSK)に入り、天性の素質を生かし歌に踊りに舞台にドラマと、またたく間にスターの座を固めていった。そして昭和二十二年「東京ブギ」が大ヒット、ブギ十数曲をはじめ五十曲を越えるヒットを重ね一世を風びするのだった。そんな笠置を出生をめぐるスキャンダル報道が襲う。南原は笠置を東大総長室に招き虚報を打ち消したのである。さらに南原は自ら進んで笠置シヅ子後援会長となり、笠置の悲願だった「ふるさと公演」までも実現させたのだった。
南原と笠置の心をここまで寄り添わせたのは何だったのか。このとき南原は、笠置のことを詠んでいる。
「若くして死にたる友の女郎花がかく世に出でて大いに歌う」
そして、自らのふるさと観を
「幼くてわれの越えにし大坂峠に立ちて見さくるふるさとの町」
笠置もまた、このうたに自らの思いを重ね合わせて涙したという。
生いたちと歩いた道は違っても二人は片親に縁が薄く、決して幸せな家庭環境ではなかった。幸せ薄くふるさとを離れた人ゆえの、誰よりも深い望郷の念が、滲(にじ)んで見えるのである。
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共同通信社=写真提供 |