宿命的な人生の有り様(よう)を仏教で「因縁(いんねん)」と言い、仏の意であると説く。そうだとしたら水原と三原が織りなした『宿命のライバル』というドラマは、仏が描いたシナリオだったのだろうか。
昭和初期、讃岐高松から若鷲が飛び立った。希代のヒーロー水原である。高松商から慶応へと羽ばたく。これを追うかのように、三原が高松中から早稲田へ。両雄はやがて、巨人軍という球界最高峰に舞う双頭の鷲になった。
監督になった三原は、たちまち最強軍団を育てるが、翌年暮れにシベリア抑留から帰国した水原に監督の座を明け渡す。球界では、何よりも現役時代の『顔』が優先されるのである。背広を着た名ばかりの総監督、三原は巨人を去って西鉄ライオンズに移る。そのときの心境を三原は、自著『風雪の軌跡』の中で、「私は報復の思いを胸に秘めて関門海峡を渡った」と記している。
昭和30年から3年間、三原西鉄は水原巨人を倒し日本一に輝き、怨念を晴らすのだった。華麗にして凄絶なこの宿命の対決を、メディアは魔術師(三原)と勝負師(水原)、さらには武蔵と小次郎の『巌流島の決闘』と書きたてた。知略の限りを尽くした宿命の死闘に、日本中の野球ファンが酔いしれたのである。
巨人に金字塔を建てた水原も監督の座を追われた。監督の世界は冷酷である。追われた身に、水原もまた怨念を宿すのだった。そして、2年後、東映フライヤーズに移った水原の姿が、日本シリーズのマウンドで宙に舞う。水原ファンは万感を胸にスタンドに立ちつくしたのだった。
「私は引退しますが、巨人は永遠に不滅です」と言ったのは長嶋茂雄である。その巨人に、そしてプロ野球界に『不滅の灯』を点したのが水原と三原であった。球界の標石といえるのだろう。
いま高松市中央公園に、ユニホーム姿の二人の銅像が、「恩讐を越えて」語らうかのようにして立つ。
(本文敬称略)
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高松市中央公園内にある2人の銅像

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