特別展の詳しい情報

常設展示室1

伊勢御師(いせおんし)が見た讃岐

   
会期 平成29128日(金)~平成3018日(日)
 開館時間:9:00~17:00 (ただし日本伝統工芸展開催期間中の金曜日は19:30まで)
 休 館 日:12/11・18、12/25~H30.1/1、1/22・29、2/5・13
展示点数 「一生に一度は伊勢参り」と伊勢音頭に謳われる伊勢神宮(三重県)は、古代以降、天皇家の祈祷所として発展します。しかし、中世以降は主に東日本の武士の帰依を受けることで、その存在意義が変わりはじめます。とりわけ江戸時代には、「おかげまいり」「ええじゃないか」で知られるように、伊勢参宮は庶民的行事となり、民衆に身近な存在となります。その要因として、「伊勢御師」の活動にその答えのひとつを求めることができると考えられます。
 Ⅰ部では、御師として伊勢神宮の権禰宜層(ごんのねぎそう)が果たした、神宮と民衆を結びつけるための努力や民衆との関わりを紹介し、Ⅱ部では、4人の御師が旅の途中で見た讃岐の光景を再現します。
展示構成 Ⅰ部 御師とは
Ⅱ部 伊勢御師が見た讃岐
展示点数 37件59点 
観覧料
一般410円(20名以上の団体は330円)、
高校生以下、65歳以上の方、身体障害者手帳等をお持ちの方は無料
*会期中開催の日本伝統工芸展の観覧券でも観覧可

関連行事

ミュージアムトーク(担当学芸員が展示内容について分かりやすく解説します)

日時 12月9日(土)、23日(土・祝)
平成30年2月3日(土) 各13:30~
*申し込み不要、観覧券が必要
場所 常設展示室1

主な展示品

祓串
祓串
祓串(はらいくし)
安政2年(1855) 
瀬戸内海歴史民俗資料館蔵

数十本を一束にして、一万度御祓大麻に納められていました。
神社でお祓いを行う際に今でも使われる大麻を小型化したようなものを、祓串(はらいくし)と言います。祓串は幅1cm弱、長さ20cm程度の板状あるいは串状のものです。
一万度御祓大麻
一万度御祓大麻
一万度御祓大麻
安政2年(1855) 
瀬戸内海歴史民俗資料館蔵

祓串を納めた箱が御祓大麻、いわゆる「お祓い箱」です。ありがたいお祓い箱ですが、年が明けると旧い箱は新しいものと取り替えられます。このことから、「祓い」を「払い」(=邪魔・不用なものを取り除く)にかけて、「お払い箱」の発想が加わりました。
長栄講伊勢講覚
長栄講伊勢講覚 
長栄講伊勢講覚 
明治8年(1875)
当館蔵

講は村々からひとつの目的をもって集まった人々の集団です。講員は講費を分担し積立て、それを講の運営に充てました。伊勢講の場合、毎年、講員の中から参拝者を決め、その者の伊勢までの往復の旅費と神楽奉納などの祈祷料を負担しました。各講には独自のルールが定められていました。本展示では讃岐吉津村(現・三豊市三野町)の長栄講について紹介します。
木碇
木碇
木碇
高松城跡(西の丸地区)出土 
12世紀後半~13世紀前葉 香川県埋蔵文化財センター蔵

今から500年前の野原は、高松城がある地点から庵治半島までが巨大な湾のようになっていました。屋島はそこに浮かぶ島でした。文安2年(1445)正月から翌年正月の間の兵庫北関(現在の神戸港の前身)の通関記録である「兵庫北関入船納帳」には、船籍地として「野原」の記録が残されています。
 右の写真は木製の碇です。中世後期には、伊勢船とよばれる箱造り船舶の往来が瀬戸内で見られました。内湾気味に湾入した自然地形を利用した湾内の水深は浅く、小型船が停泊していたと考えられます
刻書瓦(丸瓦)
刻書瓦(丸瓦)
刻書瓦(丸瓦)
高松城跡(無量寿院跡)出土
16世紀後半 高松市埋蔵文化財センター蔵
※12月26日(火)より展示

中世の野原郷は「中黒」「浜」「西浜」「天満」「中ノ村」などの地域から成っていました。これらの地域の寺社の中心的存在が無量寿院です。無量寿院は談議所(だんぎじょ)(僧の学問所)で、坂田郷(現・高松市西春日町付近)に建てられ、天文期(1532~1555)に、野原に移転しました。移転後の無量寿院境内と考えられる場所から見つかった瓦には「野原濱村无(無)量寿院 天□(文ヵ)」という刻書があります。しかし、永禄8年(1565)の「さぬきの道者一円日記(写本)」によれば、無量寿院について「なかくろ里 たんき(談義)所」との記録があります。これらの事象から、野原内部で中黒の領域が拡大し、地域における中心地としての機能の向上が伺われます。
左端:石塔 右端:五輪塔
左端:石塔 右端:五輪塔
左端:石塔 右端:五輪塔
左端:浜ノ町遺跡 出土  右端:積浦遺跡 出土  
いずれも13世紀後半~15世紀 香川県埋蔵文化財センター蔵 
※左端、右端のみ展示

無量寿院をはじめ、野原には多くの寺社が集まっていました。このことは、中世の信仰的シンボルである多層塔や五輪塔が多く見つかっていることからもわかります。野原は経済的・宗教的基盤をもった港湾都市でした。それは野原が人やモノの往来が盛んで、学問や知識といったソフト面での集積もなされていたことを意味します。このような場所だからこそ、伊勢御師岡田大夫は、宿を定め、讃岐国廻檀の起点としたのではないかと思われます。後に、この場所には高松城が築かれます。