香川の水資源
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香川の水の風俗(歴史、風俗、伝説) |
【水の恩人 西嶋八兵衛】
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多くのため池を築いた讃岐の水の恩人
「西嶋八兵衛」

(にしじま はちべい)1596年〜1680年 |
西嶋八兵衛は、慶長元年(1596年)遠州(静岡県)浜松で生まれ、名を之友(ゆきとも)通称を八兵衛といいました。水利、土木、経済、書道に優れ、17歳の時に伊勢(三重県)津藩主藤堂高虎に仕えました。寛永2年(1625年)、高虎から命ぜられ、讃岐生駒藩に招かれて家臣となりました。
八兵衛は、讃岐に寛永16年(1639年)までの14年間住み、その間の讃岐の情勢は平穏なものではなく、藩政がふるわないうえに地震、干ばつなどの災害が相次ぎ、生活に困った領民のうちには他国に移るものさえあったと言います。八兵衛は高虎に状況を詳しく報告し応急措置を講ずる一方、領民の生活安定について長期的視野にたって、新たなため池の築造や、改修を行うなど、領民達の暮らしを支える水の確保に大いに手腕を発揮しました。特に元暦元年(1184年)以来、堤防が決壊したままになっていた満濃池を4年がかりで復旧したほか、龍満池(香川町)、小田池(高松市川部町)、山大寺池(三木町)、三郎池(高松市三谷町)、瀬丸池(高瀬町)、亀越池(満濃町)、仁池(綾歌町)など県下の著名なため池のほとんどを手がけ、わずか数年で90余りのため池の築造・改修を行いました。八兵衛はため池の築造などのほかにも、石清尾山の東と西に分かれてはんらんを繰り返していた香東川の川筋を変え、西の流れ1本とする大規模な治水事業に取り組みました。八兵衛の築いたため池は、かんがいだけでなく、洪水を防ぐという治水面でも効果を持つものが多く、技術者としていかに優れていたかがうかがえます。讃岐を離れてからは、城和奉行や伊賀奉行をつとめ、延宝8年(1680年)3月に85歳で亡くなりました。