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東山画伯の紹介

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東山画伯物語青年期

大正15年
東京美術学校日本画科1年生

両親と兄弟から離れ、東京に下宿をして東京美術学校に通うようになった彼は、世の中には画家になりたくても環境がそれを許さなくて、才能をみがくこともなく、埋もれてしまう人が多いことに気がつき、力を尽くして勉強をしなければならないと思うようになります。

1年生の夏、木曽川に沿う8日間の旅で神戸に住んでいた頃のなごやかな自然や神戸市民の明るい生活とは違った、山国のきびしく雄大な自然と、そこに住む人々の素朴な生活に深い感銘を受けます。それ以来、信濃や甲斐の山国に旅し、題材とするようになりました。

4年生の夏、初めて帝展出品画を制作している最中に兄が肺結核で亡くなり、父親からの仕送りを断って挿絵の仕事をしながら学校へ通いはじめます。学業と仕事の両立をするのにかなりの苦労をしましたが、独立した生活ができるという自覚が心を充実させていました。

出品作品の「山国の秋」は初出品初入選をし周囲の人から期待されました。その時になんでも自分の力でできるだけのことをやって、それでも及ばないところは仕方がないとあきらめる気持ちと自分の置かれた環境の中で最善を尽くすということが、それから後の彼の信条になります。

卒業と同時に結城素明先生に師事し、魁夷という雅号をつけました。魁夷という雅号は日本画の雅号には美的な、または、めでたいの意味を持つ場合が多く、若い頃の反発的な気持ちもあってなるべく類型のない荒削りな感じを受ける雅号をつけました。

その頃、研究科に籍を置き、同窓生6人で六條社というグループを結成し、毎年資生堂画廊で研究作品の発表会を行うことになりました。当時の彼は、西洋の美術を見るだけでなく、西洋での生活を体験し、日本にない生活や芸術を見ておく必要があると感じ2年間で費用を作り、ヨーロッパに旅立ちました。

昭和9年
スイス、モンブランを望む
留学時代

ヨーロッパ各地を5ヶ月間巡遊し、ベルリン大学哲学部美術史科に入学。主にドイツとイタリアの中世からルネサンスへかけての講義を聴きましたが日本美術史を聴講したのも興味がありました。また、音楽好きの彼は、日曜日の朝売り出される安い切符を買い、音楽会やオペラを鑑賞しましたが、その感動は大きいものだったようです。

ベルリンの生活にもなれた彼は欧州一巡の旅に出かけました。その間、欧州の絶大な自然の数々に感動し、イタリア・ルネサンス初期の絵画には、作品を目の前にして、打ちのめされ、私も画家になろうとしているのかと思ったとき、絶望感に襲われました。 その後、ベルリンに帰り、交換学生の推薦を受けて、2年間の留学生活を送ることになりましたが、留学期間が後1年という時期に父親が病気という出来事のため、日本に帰国。

これまで順調だった彼の行路は、この時を堺に暗い谷間をたどることになります。父親の 病気はたいして危険というほどではなく、商売上の問題が深刻になっていました。今まで父母を顧みることが無かった自分が恥ずかしく、すまないという気持ちでいっぱいになります。

そして、帝展への出展作品の落選。友人たちはつぎつぎに華々しい成績をあげて一躍画壇の寵児となって活躍していきますが、彼は暗中模索の時代で画風も決まらず淡い色調で白馬などを描いていました。画商の依頼があったり、特にパトロンの話があっても、こんな時代の作品を手放すことはよくないと考え断っていました。

彼はこんな間でも始終、旅を続け自然の懐の中で、親しい山々や木々に話しかけ、運命に逆らわず耐えてゆく姿に感動をこめて見守りました。

32歳のある日、友人から結婚話を持ちかけられ、美術学校の先生であった川崎小虎の長女と結婚をすることになりました。これからようやく落ち着いて仕事に打ち込めると思ったのもつかの間で、翌年弟が就職をすると間もなく結核になり入院をしてしまいました。母親も脳溢血で倒れ寝たきりになります。

昭和28年自宅付近で東山夫妻

そして戦争が始まり、知人の弁護士に相談をして神戸の家を処理しました。その1ヶ月後に父親が心臓喘息で亡くなります。

婦人と母親と3人で飛騨の高山に疎開をしていましたが、容赦なく彼の元に一通の電報が届き徴兵されました。熊本の連隊に入り、爆弾をかかえて戦車にぶつかるという訓練を受けているある日、熊本城の天守閣から肥後平野を見下ろし雄大なながめに衝撃を感じ、純粋な心で自然を見ていなかった自分に気づかされます。

戦争も終わり、再び一家が集まることができ、自由に絵が描ける日々に夢中になっていました。そんな頃に母親が衰弱し亡くなり、第1回の日展への出展作品の落選、引き続き弟もこの世を去ります。彼はすべての肉親を失い絶望の真ん中にいました。

その年の秋、第2回日展で「水辺放牧」と題する作品が入選。彼の戦後の進むべき道を決定しました。

『東山魁夷 自然のなかの喜び』(講談社刊)